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遠藤周作展

神奈川近代文学館にて遠藤周作展を開催中です。


今回の企画テーマは「沈黙」だそうです。

なので、行く前に私も「沈黙」を読み直しました。
前に読んだのは随分と前だったと思います。(^_^.)
なので、そうかそうかと初めて読んだかのようでした。

「沈黙」はキリシタン禁制時代、ポルトガルの司祭が日本に潜入し、隠れていた信徒と出会い、別れ、その都度悩み苦しみ、最後には踏絵を踏むに至る物語。


311震災後、聖書を出してどこからともなく読み返したりしていたのだけれど、単純に「神様って怒るんだっけ?」


「沈黙」の中で、ロドリゴ司祭は弾圧される信徒を横に何度も神に助けを祈る。
が、神は沈黙したまま、救いは現れず、信徒も一緒に潜入した司祭までも死を迎えることになる。


そして、自分の信仰の為にこれ以上信徒への弾圧には耐えきれなくなったロドリゴは踏絵に足を載せることとなる。


司祭は足をあげた。足に鈍い思い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭に向かっていった。
踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。
こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。
「沈黙」遠藤周作著




なーんだ、やはり神はいないのだ。


信仰の厚いカトリック教徒だった遠藤さんも、結局は神は苦しみからは救ってくれないと言っているのか?

と思わせてしまうような終盤。



なのだが、やはり人間は弱い、それを知る神が使わしたのが、イエス・キリストであり、キリストはすべての罪を私が十字架に掛かって償ったのだから、いいのだよ。踏絵を踏んでもいいのだよ。あなたは信仰を裏切ってはいないよ。私はあなたの痛みをわかっているから大丈夫だよ。

神はいつも寄り添い、苦しみも嘆きも共に感じ、寄り添っている。


この「沈黙」で伝えていることは、「寄り添うこと」の大切さだという。


苦しみや悲しみ、試練がない世の中はないし、それをクリアして乗り越えていくことが生きることだともいう。
祈れば願いが叶うとか、今では○○すれば願いは次々と叶います!なんてお願いグッズもたくさんあるけれど、神様は願いをかなえてくるものではない。

寄り添ってくれる人のいることで救われることがきっと身近でもあるはず。
そして、寄り添ってくれる人に神の姿を感じることもきっとあるだろう。


孤独にパソコンや携帯とにらめっこになっていた時代に、隣の人に寄り添うことの大切さを今学んでいるような気がする。







幼稚園、教会学校、中高キリスト教教育、大学もキリスト教教育の環境で育った。熱心な信徒ではないけれど、神の存在は信じている。

人をみる仕事についてからはますます、神の存在なくしてこの精巧な生き物というのはなかっただろうな。
などと考えてしまう。

とはいえ、神はあり、それを伝える方法はさまざまで今ではキリスト教ひとつにしても様々な宗派というものがあり、それぞれ独自の解釈をしていたりするので、何が本物か?はよくわからない。

今回の展示会の中に、筆者は忘れてしまったが(^_^.)
どの宗教でも構わないでないか、先にあるのは神一人

というような文句が書かれていた。

その通りだな。と思う。


最近では仏教の教えを書いた本もぼちぼち読んでいて、生きることとか生きていることとかよくわからなくなったりするけれど、結局は自分に与えられたこの人生を「生かす」ことが今の自分に与えられたことなのではないかと感じている。




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横浜のはり灸師の日々オフブログ。

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